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菊池謙二郎 1867年(慶應3)〜1945年(昭和20) |
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武石浩玻 1884年(明治17)〜1913年(大正2) 本校内の銅像の写真はこちら 茨城県那珂郡勝田村勝倉(現在のひたちなか市勝倉)生まれ。本名は道之介。 1902年(明治35)茨城県尋常中学校(水戸一高の前身)卒業後, 直ちに渡米。10年間にわたり勉学に励む一方, 行商・農業労働・新聞発行などに取り組む。その後, カーチス飛行学校に入学し, 優秀な成績で卒業した。1913年(大正2)4月, 11年ぶりに帰国し, 大阪朝日新聞社と都市連絡飛行の契約を結んだ。こうして, ライト兄弟が飛行機を発明して10年目に日本人初の民間人飛行士が誕生した。 ○今さらに老ひたる父母の涙をばそそがしむべく帰る我かな 同年5月3日(土)鳴尾での旋廻飛行に成功。4日(日)は鳴尾・大阪・京都の都市連絡 飛行に挑む。京都の深草錬兵場に着陸する寸前, 機体の重心を保持するための鉄片が離れて操縦不能となり, 地上に激突して絶命した。無残な姿となった機体は臨場の久邇宮邦彦親王によって「白鳩号」と命名された。菊地謙二郎校長らが発起人となって記念碑建設募金活動が行われ, 年末には飛行服姿の銅像が建立された。 |
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飛田穂洲 1886年(明治19)〜1965年(昭和40) 本校内の胸像の写真はこちら 茨城県東茨城郡大場村(現在の水戸市大場)生まれ。 1907年(明治40)茨城県立水戸中学校(水戸一高の前身)卒業。 1913年(大正 3) 早稲田大学法学部卒業。 飛田穂洲は, 水戸中学校・早稲田大学で野球選手として活躍し, その後早稲田大学野球部監督(1919〜1925年)となって黄金時代を築いた。その間, 報知新聞社(1911年入社)・讀賣新聞社(1918年入社)でも活躍し, 1926年以降は朝日新聞社で評論や随筆を執筆した。彼の野球論の特徴は,「一球入魂」という言葉で知られるように,精神性の重視にある。また彼は, 野球の教育効果に着目して中等野球(高校野球)・大学野球の普及に努め, 「学生野球の父」と讃えられている。1961年には野球殿堂入りを果たし, 現在では飛田穂洲旗中学野球大会も開かれている。 飛田穂洲の胸像は, グラウンドを見下ろせる本校南端に建立されており, 側にはサトウハチローの詩碑「飛田穂洲先生を偲ぶ」(はじめの詩, まんなかの詩, おわりの詩)が置かれている。 ○ はじめの詩 ひとつのものを つらぬくことのすばらしさ ひとつのものに 何から何まで打ちこむうつくしさ ひとつのものを 大事にそだてるやさしさ きびしさ ひとつのもの以外 ふりむかないガンコさにも われわれは笑顔と拍手をおくろう ひとつのもの ただひとつのもの ひたむきにそれと取り組んできた人 その人にわたしはいままでしたことのない おじぎをする |
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長塚 節 1879年(明治12)〜1915年(大正4) 茨城県岡田郡国生村(現在の石下町国生)生まれ。 1893年(明治26)茨城県尋常中学校(水戸一高の前身)入学したが, 1896年(明治29)病気のため中退。1900年(明治33)正岡子規の門に入る。子規没後, 伊藤左千夫らと『馬酔木』を出し, 後に『アララギ』の同人となる。正岡子規率いる根岸短歌会で清新精緻な自然詠を作り, 左千夫とともにアララギ歌風の基をつくった。 地主の家に生まれた節は, 極貧に喘ぐ小作勘次一家の生活を写実的に描いた小説『土』で知られる。1910年(明治43年), 夏目漱石の推薦を受けて『東京朝日新聞』に連載された。また, 1914年(大正3)から翌年にかけて発表した『鍼の如く』(231首)は, 静かな歌調の中に無限の哀感を伝える病中吟が主調となっており, 彼の絶作となった。現在, 長塚節の生家は県史跡の指定を受けており, 記念碑は水戸一高を望む千波湖畔こぶし広場に建立されている。 ○ 花あらば実さへ何時しか結ぶらむ歌の林は楽しかりけり(1893年) |